推し活×歴史

推し活クロニクル 1940年代|戦時下の統制から「リンゴの唄」へ。戦後の芸能が動き出した10年、ラジオの「のど自慢」も始まった

1944年3月、第二次世界大戦の戦時下で、宝塚大劇場と東京宝塚劇場に閉鎖命令が出ました。推しの舞台へ通う楽しみや好きな歌を聴く日常にも、戦争の影響が直接及びます。

1945年8月の敗戦後は劇場の公演が相次いで再開し、ラジオでは一般の聴取者がマイクの前で歌を披露する「のど自慢」も始まりました。娯楽が厳しく制限された時期と、歌や舞台を再び楽しむ動きの両方があった10年です。

戦後の小さな会場でマイクの前に立つ女性

戦時下では、聴ける音楽や上映できる映画が制限された

1940年10月末には全国のダンスホールが閉鎖され、ジャズは「敵性音楽」として排除の対象になりました。「敵性音楽」は、交戦相手国である米英由来の音楽を敵視した当時の呼び方です。スチールギターやバンジョー、サクソフォーンなどの楽器も使用が制限されていきます。関西大学のジャズ研究紹介

太平洋戦争中の1943年1月、情報局と内務省は米英のジャズやポピュラー音楽のレコード約1,000種(1,126枚)を指定しました。これらのレコードについて、演奏や販売・店頭陳列を禁じる通達を出しています。昭和館「戦中・戦後の音楽」

映画にも厳しい検閲がありました。1939年施行の映画法は、内務省の検閲に合格した作品でなければ上映できないと定めています。さらに戦局の悪化とともにフィルムの配給統制が進み、劇映画の製作本数そのものが大幅に削られました。歌だけでなく、推しの俳優の出演作を見られるかどうかにも、国の方針が関わっています。文部科学省・映画法

李香蘭の公演に人が集まり、歌手は慰問にも出向く

娯楽への制限が強まる中でも、スターを一目見たいという人々の熱気は消えませんでした。1941年2月11日の紀元節、東京・有楽町の日本劇場で実演公演『歌ふ李香蘭りこうらん』が開かれます。早朝から切符を求める群衆が日劇を幾重にも取り囲み、日比谷交差点まであふれました。丸の内署の警官や騎馬警官が整理に出動する騒ぎとなっています。当時の新聞をたどる記事

一方、歌手や劇団が陸海軍の病院や軍需工場、前線の部隊などへ出向く「慰問」も盛んに行われます。笠置かさぎシヅ子は「笠置シヅ子とその楽団」を結成し、戦時中は全国の工場や炭鉱を慰問して回りました。得意としたスウィング・ジャズの演奏が難しい状況で、歌う曲やステージの動きにも戦時下の制約が課されています。日本コロムビア・笠置シヅ子

戦地へ届ける慰問袋に、流行歌のレコードが入れられることもありました。1940年1月に発売された霧島昇きりしまのぼるの「誰か故郷を想わざる」(西條八十作詞・古賀政男作曲)も、故郷をしのぶ歌として広く聴かれた曲です。日本コロムビア沿革

ただし、戦時下の慰問公演や慰問袋は、国家による戦争動員や戦意高揚の仕組みと結びついていました。現在のファンが自分の意思で公演を選び、推しに会いに行く活動とは、置かれていた状況が異なります。

宝塚は公演を再開。東京では別の劇場を借りる

1944年2月に決戦非常措置要綱が閣議決定され、3月には高級享楽の停止として全国の大劇場に閉鎖命令が下りました。宝塚では上演中の公演や稽古が直ちに打ち切られ、宝塚大劇場は海軍に接収されます。松竹少女歌劇団も、本拠地の浅草国際劇場が風船爆弾を作る軍需工場に転用され、通常の公演を続けられなくなりました。宝塚歌劇の歩み/松竹の沿革

敗戦後、劇場公演は少しずつ再開へ動き出します。ただし、もとの劇場をすぐに使えたわけではありません。

宝塚の公演が再開するまで
  1. 1944年3月

    二つの劇場に閉鎖命令

    宝塚大劇場と東京宝塚劇場の公演が止まりました。

  2. 1946年4月

    宝塚大劇場で公演再開

    雪組の『カルメン』と『春のをどり・愛の夢』を上演。公式史は2年2か月ぶりの公演と記しています。

  3. 1947年4月

    東京公演は日本劇場で再開

    東京宝塚劇場は接収中だったため、別の劇場を借りて公演しました。

宝塚歌劇100年史

ラジオで「紅白音楽試合」と「のど自慢」が始まる

1945年12月31日の大みそか、NHKラジオは非公開番組『紅白音楽試合』を放送しました。当初は「紅白音楽合戦」と題する予定でしたが、占領軍(GHQ)から「敗戦国がバトル(合戦)とは何事か」と指摘を受けて「試合」に改められています。並木路子やディック・ミネらが出演したこの番組が、1951年に始まる『NHK紅白歌合戦』の原型となりました。NHKアーカイブス「紅白歌合戦の歩み」

翌1946年1月19日には、聴取者が自らマイクの前で歌う「のど自慢素人音楽会」が始まります。プロの歌手の歌を聴く従来の番組とは異なり、一般の人が応募して伴奏つきで歌声を披露する公開番組でした。「のど自慢80年」

1947年7月には、菊田一夫きくたかずお脚本の連続ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』が始まりました。戦災孤児たちが力を合わせて生きる物語が、全国のラジオで聴かれています。放送ライブラリー

「リンゴの唄」「東京ブギウギ」、そして美空ひばり

敗戦から2か月後の1945年10月、松竹映画『そよかぜ』が公開されました。その挿入歌が、並木路子なみきみちこの歌う「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞・万城目正作曲)です。霧島昇とのデュエットによるSPレコードは、翌1946年1月に日本コロムビアから発売されました。1947年末までに12万5,000枚を売り上げ、戦後第1号のヒット曲となっています。松竹・作品紹介/日本コロムビア沿革

笠置シヅ子が服部良一と組んだ「東京ブギウギ」は、1947年9月に録音されました。10月の日本劇場公演『ジャズ・カルメン』などで披露され、翌1948年1月にレコードが発売されています。ステージを縦横に駆け回りながら全身でリズムを刻む笠置の歌唱は、「ブギの女王」として戦後の客席を沸かせました。日本コロムビア

1949年9月には、12歳の少女歌手・美空みそらひばりが歌う「悲しき口笛」のレコードが発売されました。翌10月には、ひばり自身がシルクハットと燕尾服姿で歌う同名の松竹映画も公開されています。レコードは当時45万枚を売り上げ、大人顔負けの歌唱力で一躍全国区のスターとなりました。美空ひばり公式年表/松竹『悲しき口笛』作品情報

雑誌『平凡』で、スターの写真や読者の投稿を読む

1945年11月には、凡人社(のちの平凡出版、現マガジンハウス)から文芸娯楽雑誌『平凡』が創刊されました。1948年からは、歌手や映画スターのグラビア・歌詞・読者投稿欄を組み合わせた大衆芸能誌へと誌面を刷新します。スターの顔と歌を同時に届ける編集で、部数を大きく伸ばしていきました。田島悠来『出版研究』46号

家庭で音楽を聴くためのSPレコードも、原材料不足を乗り越えて生産が回復しました。日本レコード協会の統計では、1946年の年間642万枚から、1949年には1,686万枚まで生産枚数が増えています。日本レコード協会

この10年の主な出来事

劇場が閉じ、また開いた10年
  1. 1940年全国のダンスホールが年内にほぼ閉鎖される音楽
  2. 1941年2月日劇『歌ふ李香蘭(りこうらん)』に群衆が押し寄せる舞台
  3. 1943年1月米英音楽1,126枚の演奏・発売が禁じられる音楽
  4. 1943年5月笠置シヅ子(かさぎしづこ)が楽団を結成し、全国を慰問音楽
  5. 1944年3月宝塚大劇場・東京宝塚劇場に閉鎖命令舞台
  6. 1945年9月GHQがプレス・コードを発出、検閲が始まるメディア
  7. 1945年10月松竹『そよかぜ』封切り、「リンゴの唄」が広まる音楽
  8. 1945年11月有楽町の日本劇場が再開、笠置シヅ子(かさぎしづこ)も活動を再開舞台
  9. 1945年12月NHKラジオで『紅白音楽試合』を放送メディア
  10. 1946年1月NHK「のど自慢素人音楽会」放送開始メディア
  11. 1946年4月宝塚大劇場が2年2か月ぶりに公演を再開舞台
  12. 1946年8月川上哲治(かわかみてつじ)が「赤バット」を使い始めるスポーツ
  13. 1947年7月ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』放送開始メディア
  14. 1947年9月笠置シヅ子(かさぎしづこ)「東京ブギウギ」を録音音楽
  15. 1948年1月日本動画株式会社(後の東映アニメ)設立ビジネス
  16. 1949年9月美空ひばり(みそらひばり)「悲しき口笛」発売、同名映画も公開アイドル

この時代の言葉

この時代の芸能と暮らしの言葉
敵性音楽
内務省・情報局がジャズなど欧米由来の音楽を排除するために用いた言葉。ダンスホールの閉鎖と一体で語られる
慰問
軍隊・工場・病院などへ演者が出向く公演。戦時の動員や統制の下で行われた
ブギの女王
笠置シヅ子(かさぎしづこ)の異名。「東京ブギウギ」以降、服部良一(はっとりりょういち)とのヒットが続いたことで定着した
赤バット・青バット
川上哲治(かわかみてつじ)・大下弘(おおしたひろし)のトレードマークになった道具の色。個人を色で覚える呼び名

図の「赤バット」は巨人軍の川上哲治かわかみてつはる、「青バット」は東急フライヤーズの大下弘おおしたひろしが使った色つきのバットに由来します。戦後再開したプロ野球でも、ファンが道具の色とともに覚える人気選手が登場していました。週刊ベースボール

1950年代にはテレビ放送が始まり、歌手や俳優、スポーツ選手の姿を家庭でも見られるようになります。

推し活年表

よくある質問

1940年代は推し活史でどんな10年でしたか?

推しを楽しむ場所と手段が国の統制で次々に限られ、敗戦後に再び広がった10年です。1944年3月に閉鎖命令が出た宝塚大劇場では、1946年4月に2年2か月ぶりの公演が開かれました。

「敵性音楽」とは何ですか?

内務省と情報局が米英由来の音楽を排除するために使った言い方です。1943年1月には1,126枚のレコードについて演奏と発売を禁じる通達が出され、レコード会社は社名の変更も迫られました。

紅白歌合戦の前身は1940年代にありましたか?

1945年12月31日にNHKラジオ第1で『紅白音楽試合』が放送されました。当初の案は「紅白音楽合戦」でしたが、GHQが難色を示したため「試合」に改められました。この番組が1951年の第1回紅白歌合戦につながりました。

「東京ブギウギ」はいつの曲ですか?

笠置シヅ子が1947年9月10日に録音し、同年のうちに東京・有楽町の日本劇場などの舞台で披露しました。レコードの発売は1948年1月とされ、録音・披露の年と発売の年が分かれて語られる曲です。

NHK「のど自慢」はいつ始まりましたか?

1946年1月19日に「のど自慢素人音楽会」として放送を開始しました。ラジオニュースで参加者を募ると希望者は900名を超え、1日300人ずつテストして出演者を選んだと伝えられます。

美空(みそら)ひばりはいつデビューしたのですか?

1945年12月に横浜・磯子の杉田劇場で初舞台を踏みました。1949年6月にレコードを初めて吹き込み、9月発売の「悲しき口笛」と10月公開の同名映画で広く知られるようになります。